はじめての記憶 ― 2007/04/03 00:51
はじめての記憶って何だろう。
写真や人づてに聞いた話が最初の記憶の様なつもりでいる事も多い。
私の実家では父が写真好きで、いっぱい写真、特にスライドとよばれた映写機で写す写真を良く撮っていた。
もちろん、いまのデジカメや携帯カメラ世代に比べれば、枚数的にはとても叶わないのだけど。
年に数回家族で”スライド大会”と銘打ち、映写会をした。 その当時ですら少し黄ばんだ写真。 いろいろな人が、その時代の顔で笑っていた。 私と弟、若かった頃の母もいっぱい写真で笑っていた。 写真の前後の記憶を皆で話し合い補完しあって、思い出がどんどん蘇る。
楽しく幸せであった。
自分自身の家族ができ、今果たしてあのときのような幸せな気持ちを家族に与えているのか、ふと考えてまう。 パーソナルなことが前面に出てきている今の世の中。 家族もそれに流されすぎているような気がしてならない。
さて、表題の初めての記憶であるが、写真等の補完に依らない私自身の記憶としてはっきり残っているのは、多分3歳か4歳ころの記憶となる。
その当時名古屋の大同町と呼ばれる、工場地帯の脇にある父親が勤めていた会社の社宅に住んでいた。 これは私の記憶ではないが、こどもの日に近くのお菓子屋さんで買った大判焼きを私は食べたらしい、その大判焼きを食べた直後から嘔吐と下痢に襲われ、たぶん、”おなかいたいよ〜”と泣き叫んだに違いないのだが、”疫痢”と呼ばれる病気となり、入院した。
そこでの記憶が一番古い記憶となっている。
鉄人28号をいっぱいの子供達(みな寝間着姿)とテレビ部屋で観ている。 茶色のビニール製鉄人28号の草履(病院の中で履いていた) お見舞いに来てくれた親戚を病院の上の方の階から見下ろしている自分視線
小さいながら病院の風景は強烈だったのであろう。 多分これが一番古い記憶になっている。
入院から30年近く経って、たまたま知人が、規模も遙かに大きくなっているけれど、同じ病院・・・に入院した。 お見舞いに行った私は、まだ鉄人28号の草履を履いた私や、私の退院の時にまだ病気だった他の子達がまだいるような気がして、お見舞いの後に小児病棟を覗いたのでした。
写真は丁度入院したことの写真・私が履いているのが多分鉄人28号の草履。手前のおしめをしていると思われる男の子は弟。 後ろに写っている”自家用”車はたぶん”パブリカ”。 この車にも逸話があるので、それは又別の話で。
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